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たたき上げ首相とイノベーション

  • 執筆者の写真: tsuruta
    tsuruta
  • 2020年9月23日
  • 読了時間: 7分

更新日:2020年10月19日

最近の評論家の新政権に向けた悲観的な見方に、少々ウンザリしてきた。


まだ何も始まってもいない政権の弱点を論じて、何の意味があるというのだろうか?生産性に欠ける気もする。ここは大人しく、お手並み拝見と行こうではないか。


ところで、菅さんが首相候補として立候補したときの演説で「私は秋田の農家の長男として生まれ、高校を出て東京に出てきて世の中の厳しさを知り・・。」というストーリーに共感を持った方も多かったと思う。要は、菅さんは「私は二世議員とは違い、たたき上げだ」と言いたかったのであろう。他の2人とは違うという主張だろう。


「たたき上げ」という言葉は、多くの国民の共感を確かに呼ぶ。恵まれた環境ではなかったが、よく頑張ってきた。足を踏まれた側の痛みや気持ちがわかるなど、人生のどん底から自力で成功を掴んだ勲章としての形容かもしれない。


私は「たたき上げ」といえば、どうしても松下幸之助を思い浮かべる。私も落第生ながら、「松下学校」に38年通っていたからだ。幸之助が知られる理由は、小学校も出ていない子供が自転車屋に丁稚奉公に出て、苦労しながらも大きな成功を得るストーリーが本当に稀で、立派な人格だったからであろう。


少し整理してみよう。たたき上げとは一体何か、である。


たたき上げの論理は、二つの要素から成り立っている。一つは「繰り返し」であり、もう一つは「顧客からの直接のフィードバック」だ。幸之助も菅首相も若い時代に、この繰り返しとフィードバック(反省と試行錯誤)を途方もなく、こなしてきたのだと思う。


他の分野で「たたき上げ」の例を言うと、芸事であろうか。歌手や俳優や落語家でも突然、テレビに出て売れる人よりも、下積みが長く経験を積んだ人の方が息が長く大きな成功を納める場合が多い。これは下積みによって「場数」を多く踏んでいること。そして、毎回のライブの経験で、お客さんの反応から自分のパーフォーマンスの出来不出来や顧客のニーズを直接肌身で感じることが出来る、ということが大きい。


要は、たたき上げの特色は「繰り返し」と「ダイレクト・フィードバック」だ。この経験がものをいうのが芸事の世界だろうし、同じことが政治や経営の世界でもいえるのかも知れない。ただ、これはイノベーションの世界では、「たたき上げ」だけでは知見は生まれにくい。なぜならイノベーションは、その定義からいっても「非連続」なものだからだ。


「たたき上げ」は、イノベーションの世界ではあまり重宝されない。最近、イノベーションといえば、決まって「多様性」や「ダイバーシティ」という。しかし、これらは「目的」ではなく、イノベーションに至るプロセスの一つであり手段である。ここをはき違えている企業が多い。「手段の目的化」が現在の日本の企業では起こっている。これでは、イノベーションは生まれないだろう。運用が間違っているという人もいるが、そんな「形」だけで生まれるはずもあるまい。長い試行錯誤を通じて、軌道修正している会社は多い。


たたき上げには「創造性」はないだろうか?


創造性には2つあるという。「ゼロから一を作るもの」と「一から千を作りだすもの」であり、イノベーションは後者の創造性であるとイノベーターの西和彦は言う。彼は世界を変える可能性を持つアイデアを見つけるのは、それほど難しいものではないと言う。イノベーションが真に困難な理由は「一から千を作り出す」プロセスを動かすのが、本当に難しいからだ。多くの有能な人材がアイデアの創出を受けて市場化し、市場で成果を出すまで何年もの時間をかけて助け合いながら働かねばならない。これが難しい。イノベーションとは共同作業以外の何物でもない。多くの新しい製品の開発過程を見てきて、そう思う。一人で出来るイノベーションなどありえない。ここがわかっていないIPO経営者がいる。一部の経済評論家などもそうであろう。


幸之助が最も尊敬したのがトマス・エジソンだ。パナソニック本社の庭に、エジソンの銅像がある。多くのイノベーターに囲まれているが中央に堂々とそそり立っている。「発明王」と言われたエジソンだが、ニュージャージーにある彼の博物館を見たことがある。そこで感じたのは、彼の仕事の目的が単に「発明」に留まらず、イノベーションをはじめから事業の射程に入れていたことである。電球が良い例だ。実用的な電力供給がなければ、「電球」はイノベーションとはなり得なかった。世界に2、3個しかない単なる光るガラス玉だったであろう。しかし、エジソンが作ったGE(ゼネラル・エレクトリック)という会社は、電力供給システムを開発、製造して、そのイノベーションを作り上げたのだ。そこで初めて多くの人々に、電球の明るさという便利さを届けることが出来たのだ。成果物の享受を、多くの人が受けることが出来てこそのイノベーションだ。発明はそのキッカケに過ぎない。「発明」と「イノベーション」はそもそも違うのだ。その証拠にエジソン氏はノーベル賞を受けてはいない。「重要な発見」と「発明からの事業化」ということは、そもそも異なる評価軸なのだ。


さて、それでは日本ではどうであろうか?


幸之助は日本人の特性を見抜いていた。それは専門特化であり、「一意専心」という美徳だ。事業部制という専門部署を作り、そこで技術の深堀を行い、世の中に出す準備をして、「繰り返し」と「フィードバック」の試行錯誤をさせる仕組みを整えた。そこでラジオやテレビ、そして冷蔵庫や洗濯機と、戦後の電化された生活を大きく進めたのだ。そこには一意専心という文化が日本には初めからあったことも幸いしている。そういう職人文化があったからできた部分も多くある。大きな設備投資というギャンブルをすることなく、専門特化して「小さく生んで大きく育てる」仕組みを幸之助が作ったことは大きかった。この事業部制で、リスクを避けて効率よく事業を進めることが出来たのだと思う。


「一意専心」とは、ある意味で「井の中の蛙、大海を知らず」ということだ。悪い意味で使われる諺だが、続きがある。「井の中の蛙、大海を知らず、されど空の深さを知る」。個人的には気にいっている。面白い言葉だ。蛙は確かに広い海は知らないが、じっとして空を見るとその「深さ」が分かるというのだ。これは狭い日本ならではの話である。「一意専心」になってはじめて感じ得ることが出来るものがあるという。簡単には真似が出来ない新たな境地に達するものがある、ということだろう。これが幸之助が描いた専門特化による「繰り返し」と「顧客とのダイレクト・フィードバック」によるイノベーションの世界なのである。


イノベーションは、決して日本人が苦手としているものではない。結果に至るまでの「統合」という仕組みと「諦めぬチーム」さえあれば可能なのだ。


「たたき上げ」にこそ、この「諦めない心」がある。メーカーにとっては、この成功するまで止めない「諦めない心」を大事すべきだ。時流に遅れまいとしてIOTだ、DXだ、デジタル庁だと大騒ぎする。新しいことはするものの、企業として少し駄目なら事業を売ってリストラするやり方ではイノベーションは生まれない。イノベーション完結までをアシストする人間心理を深く読み取った「統合」という仕組みと、たたき上げの「諦めない心」のリーダーシップがあってはじめてイノベーションが完結する。世の中にとってイノベーションを完成できる「たたき上げの経営者」と国のエコシステムを変えることが出来る「たたき上げの首相」は財産ではないだろうか。上場企業の社長であれ、一国の首相であれ、投資家または投票者としては同じ姿勢でいたいものだ。


結局は、「結果」が全てなのだ。お手並みを静かに拝見したいものだ。それが少し見えてきてからの評価で良いではないか。したり顔での批判は賢そうに見えるが、事実に対して誠実ではない。そういうことを「たたき上げ」はしないであろうし、評価もしない。何の生産性もないからだ。


たたき上げの首相の話を思い出しながら、仙台 青葉城で伊達政宗像の右の木の上にとまるカラスの気分になって、初秋を感じながら考えた。





 
 
 

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