ガバナンスと二宮尊徳
- tsuruta
- 2020年5月11日
- 読了時間: 12分
更新日:2020年5月25日
IRに偏り過ぎたので、本業であるガバナンスやコンプライアンスの話をしたい。
ガバナンスやコンプライアンスの本質は、”お天道様は見ている”ということにある。
「ガバナンス」と「コンプライアンス」という言葉は、最近はどこでも使用されているビジネス用語だ。両者はほとんど意味を混同して使っている人もいるので、少し整理したい。
ガバナンスは英語でgovern「支配する」が名詞になったもの。「支配・統治」という意味で、英語では主に「国家」や「自治体」を統治する意味で使われることが多い。所謂governmentとは政府のことであり、統治機構という意味である。
これに対しビジネスにおいて使われる「ガバナンス」は「コーポレートガバナンス」を略した場合が多い。無論、「コーポレート・ガバナンス」は、「企業統治」という意味で、企業が企業をどう統治するかを問われているのだ。普通、管理や支配といえば「するもの」と「されるもの」が別々なはずだが、「自分で自分を管理する」という意味で使われることは珍しい。それくらい企業統治が難しく、このことが”多用される”ということは、いろいろな不祥事の現出であまり適正な統治が企業によってなされていないと見做されているということの証左だろう。
コンプライアンスは、「企業の外側のさまざまな規則・倫理に従うこと」であるが、あまり正確に理解されていない。「コンプライアンス」とは「comply」「従う、応じる」という意味を持つ動詞が名詞になったもの。つまり「企業が従うこと」。何に従うのか?法律や道徳習慣、社会的な規範、社会的な倫理に、だ。この「社会的な倫理」なのが大事だが、多くの人は法律を守っていればよいのだろうと信じ込んでいる。信じたいのかもしれない。しかし、必ずしも法律だけなのではなく、企業のモラルの意味も含むことに注意すべきだろう。いや、それこそが、わざわざこの横文字を使う理由なのではないか。
今や企業は法令を守っているだけでは不十分であり、さまざまな社会規定や規範も守らなければいけない。「遵守すべき対象が、かつてよりもかなり広がっている」ということ。そして「企業の社会的責任の重要性が高まっている」という意味も、この言葉には含まれていることを忘れてはいけない。
整理をすると、コンプライアンスは、「法令順守」よりも概念が広く、企業が「法令や社会倫理に従う」ことを言い、そのことでガバナンスは企業が企業自身を「適正に支配する」ことになる。当然、意味の上では異なる。異なるどころか、主体が違い、governと、complyとはちょうど主従関係が「真逆」。「支配すること」と「従うこと」なのだから。
「適正な支配をし、それを遵守しているか」を問うているのだ。しかしながら、そもそも「ガバナンス」する理由・目的が、「コンプライアンス」させるため。「コンプライアンス」と「ガバナンス」という2つの言葉は、主体が異なるだけで、強い因果関係で結ばれている。だから結果的に、同じような意味合いを持つ。「コンプライアンス強化」は逆から見れば、「ガバナンス強化」なのだ。
どうして最近、声高にこれらの言葉が叫ばれるのか。また、必要なのかということについて理解することが大事だ。
なぜ、今、ガバナンスか、について少し議論したい。
この契機になったのは、2001年から始まるエンロン事件だ。2001 年から 2002 年にかけ、米国ではエネルギー大手のエンロンや,通信大手のワールドコムが相次いで 経営破綻した。象徴的なので、「エンロン事件」について説明する。
エンロンという会社は米国ではトップ10に入るエネルギーとITの大企業だった。2001年まで雑誌「FORTUNE」で2001年まで6年連続の「米国で最も革新的な企業」賞を取っていた。その先進的なビジネスモデルは「未来の企業経営がここに!」という感じで大いにもてはやされた。私は当時の米国投資家や米国アナリストからよく「エンロンを見習え」と怒られたものだったが・・・。ところが、2001年についに「エンロンショック」が起きた。エネルギーのデリバティブ取引を先導していたエンロンは、電力やガスの価格が分かりにくくなっていることにつけ込んで、利益の水増しや循環取引など、ありとあらゆる粉飾に突き進んでいた。これらの不正会計発覚後にあっという間にエンロンは破綻してしまったのだ。
この頃、ちょうどエンロンの他ほかにITのワールドコムや小売業の K マートや、 海底ケーブル通信のグロバール・クロッシングといっ た企業も同様の不祥事から経営破綻になった。経営陣も関与した粉飾決算が、社会問題となるのは時間の問題だった。一時期、米国を代表するような企業の不祥事である。これら企業の経営破綻の背景にあったことが、徐々に明らかになり大きな社会問題になった。
これらの問題を 単なる個別企業の不祥事としてとらえるのではなく、 米国企業の内部統制システムあるいはガバナンスのシス テムそのものに制度上の問題があるのではないかという批判が起こった。当然である。規制の自由化から一転、企業規制のオン・パレードになっていく。米国は2002 年 7 月に連邦議会が企業改革法(サーベンス・オックスレー法)を制定するとともに、証券取引所の上場規則の修正などを通じて、米国企業、さらには米国資本市場に対する信頼の回復を図るため色々な制度が変わった。企業の適正なガバナンスを透明化し、ある程度の衆人環視 にした。
日本を含め多くの国で会計方針や上場方針も、米国の流れを受け、大きく変わった。内部統制が義務化され開示されるようになった。そして日本でも「コーポレート・ガバナンス」のコード、つまり「コーポレートガバナンスの規定」を開示することが上場会社に義務化された。東京証券取引所によって提示されているコンプライアンス遵守のための提案・方針のことだ。企業がステークホルダーを踏まえた公正な意思決定を行う仕組みとして必要な様々な規則を提案している。5つの基本原則とそれに付随した30の原則、さらにそれらを補足する38の原則から成り立ち、合計73項目についての開示を求めている。最近は、「ガバナンス」「コンプライアンス」という場合、このCGコードを見据えた意味合いとして使うことが多い。やはり、衆人環視であろう。仕組みの透明化といってもいい。
ただ、一般論で言うと、覚えておかねばならないことは、2000年から始まったIT革命はなお進化を続け、超高度な情報化社会へと進みつつあり、その中でこれまでと違う種類の不祥事問題が起こってきたということだろう。こういうなかで一定程度のガバナンスの透明化は必要不可欠であったことは確かだ。
こういう時代の流れで、「ガバナンス」と「コンプライアンス」という言葉が頻繁に使われるようになった。大事なことは、この言葉がまだそれほど頻繁に使われなかった時代と比較すると、その本質的意味が見えてくる。
その違いは企業が扱う「情報の価値」のことである。昔では考えられないほど多くの情報を扱い、その価値が高い情報を日常的に取り扱うリスクは大きいものになった。IT革命で情報の民主化が起こったが、2000年初頭は米国はじめ何処でも、その流れに管理側はついていけなかった。情報が流出した際のリスクも深刻なものになった。顧客情報などが外部に流出してしまえば、「重大なコンプライアンス違反」として企業の深刻な信用低下につながる。製造会社において設計情報は「命」だ。それが多くの会社で流出する事態が見られ始めたのも、この頃からだ。そのため、その管理の徹底が必要になった。それを意識化する必要があったのだ。一部の人しか分からない仕組みにしてはならないという考え方が始まった。情報の民主化、高度な流通が常態化して、それらの管理も透明化、高度化が必要になったのだ。無論、西洋流の性悪説に基づく面倒なチェックが必要になったのもこの頃からである。
話を変える。
二宮尊徳の言葉に「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」というものがある。尊徳の言葉にある「道徳なき経済」とは、その当時で言えば、贅沢三昧で赤字を垂れ流す金銭感覚のない藩の財政のようなことをいうのだろう。また「経済なき道徳」とは、実践のない道徳、この頃であれば現実からかけ離れた学問のことを指しているのでろう。実践が伴わない理想論を尊徳は嫌った。尊徳は学びと実践の二つを縦糸と横糸のように等しく重視してしていたということだろう。この姿勢はとても大事だ。
経営者にとっては「道徳無き経済」を認めると、どうにかすると不正につながってしまう。不祥事なってしまう。法律を冒さなくとも社会正義から外れる。最近の例で言うと日本郵政の事件がそうであろう。日本郵政は、最初は契約に従ってさえいれば、契約の当事者の責任ということで、社会通念上の倫理を横に置いていたのであろう。しかし、どう見ても、無理筋の契約を押し付けたと言われてしまえば、その通りと言わざるを得ないことをしたのではないか。また、保険会社の2005年から始まった保険会社の保険不払い事件もそうだろう。これは保険商品の募集人が新契約を取り付けることばかりに注力するあまり、顧客に対して適切な商品説明・リスク管理を行わず、特約などによる保障内容などを十分に理解しないまま顧客が契約させ、特約に該当事例があっても認知せしめないとか、または自発的に保険支払いをしない事例などが横行したことがあった。これも当時は、厳密には法令違反ではなかった。しかし、件数の多さから見ても社会常識から見て、おかしなことであった。こういうことが「道徳無き経済」というのであろう。
IT以前の社会では、こういうことも事件にはなりにくかった。情報化社会になったことによって、誰もが簡単に情報の発信者となれるという環境も生み出している。誰もがブログを数秒で開設でき、TwitterやFacebookなどで簡単に日常のことを発信し、その発言を世に問える。だから個人のことも社内のことも、簡単にそれを世間に伝えることもできる。このようなことが果たして90年代にはあっただろうか。今や、企業が何かしらの違反や社会倫理から見てを何かおかしなことをして、それを社内だけでもみ消すということは、不可能な時代になった。企業が小さなことと思っていても、大きな事件になる可能性があるということだ。逆に言うと、コーポレートガバナンスをしっかりと実施することによって対外的に優良企業として認知されることもある。そして、企業価値上がることもある。企業価値が向上すれば株価が上がったり、融資が受けやすくなったり、経営が安定する効果も期待できよう。しっかりと経営監視の強化を行う企業が、評価される社会になっているということだろう。だから多くの企業が、積極的な面からもガバナンスまたコンプライアンスを重視するようになっている。そして、これがあの「アベノミクス」の成長戦略の根幹になっていったのだ。
これが時代背景である。釈迦に説法の人が多かったであろう。申し訳ない。
たかがガバナンス、されどガバナンスである。それは「言うは易し行うは難し」なものである。
個人的に多くの事例を扱ってきて、今思うことは、思いのほか単純である。
それは「悪いことは長くは続かない」し、「お天道様は見ている」という冒頭に述べた極めて単純な原理である。だが、それでも「特殊な環境」はどこにでもできる。これを早く見つけて、タブーをなくすことが大事だ。だが、確かにこれは難しいものだ。その人の組織への貢献が、過去、大きければ大きいほどタブーができる。それを無しにすることは経験から言って、極めて難しい。これはパワハラなどでも同じことが起こる。「俺を誰だと思っているのか」という話だ。どこにでも起こる話だ。無い会社の方が珍しい。従って、ある人物や事業を聖域化することを避ける仕組みが大事なのだが、現実は難しい。つまり、組織においての見えないところ、つまり、「影」で企業犯罪やパワハラは起こる。その「影」をなくすことが大事なのだ。そして、経営者や管理者はそういうところがどこでもあり得ることと、事前に想定しておくことが大事なのだ。
それでも、だ。意外なところで「事件」は起こる。経験から言うと、そういうものなのだ。
山口弁護士のHPで掲載されていた「日本郵政の事案」で郵政幹部の幹部部下への恫喝には驚いた。良き事例なので、以下に引用する「4月28日に朝日新聞のHPに昨年1月に録取されたと思われる録音データが公開されました(心臓に悪いのであまり体調の悪い方にはお勧めできませんが)ぜひお聴きいただきたいと思います(「絶対潰す」に震える局長 録音示す日本郵便の風土)。統括局長曰く、「おまえ、まさかコンプライアンス室に通報してないよな?いまなら許すから正直に言え!俺は辞めた後でも顧問で残るから、きっと誰が通報したのかは、そのときわかる。そのとき局長が関与していることがわかったら、絶対に潰す。普通の社員ならしかたないが、局長(幹部)が通報することは絶対に許されない。みんなで仲良くやってきたではないか、そうやろ?」問い質された局長の憔悴しきった対応、疲労困憊の様子は聴くに堪えない。家族がいらっしゃるとしても、この様子では心配(録音作業を行っていること自体が、安心材料かもしれないが)。この録音データはぜひとも多くの中間管理職の方々に聴いてほしい。どんな感想でも結構。これが会社にとって「あたりまえの風景」ということであれば、20代、30代の若い従業員の方々にとっても気構えが必要ですし、我々、内部通報制度を支援する専門家にとっても、これが当たり前であることを前提に対応しなければならない。」
これがリアリティなのだ。先日、日立金属は検査不正が発生していたことを公表し、社内の情報提供が調査の端緒であったことを明らかなった。今年1月下旬に届けられた1通の内部通報が、10年以上も現場で続いていた検査不正を明らかにしたという。
臭いものに蓋をしたつもりでも、隠しきれないのが現実ということを知るべきだ。しかし、どんな法律を改正をしたとしても、これを運用する企業自身の風土が「旧態依然で隠す文化」ということであれば、通報制度は機能しないかもしれない。だが、遅れるだろうがいつかはこういう膿は出る。経営トップのコミットメントも大切。しかし、それよりも大事なのは中間管理職の意識だろう。
さて、人に言うのは簡単だ。自身が中間管理職であったときに、どうしただろうか、と胸に手を当てて考える。先のテープにあった日本郵政幹部の恫喝を恐れないだろうか?「おい、本当か?」と考える。こういうリアリティが大切なのではないか、と思う。現場にこそ、真実があることを忘れてはいけないと改めて思うのである。
お天道様は見ている。隠してもいつかは、暴かれ、裁かれる、と。尊徳の言うように、やはり「道徳無き経済は罪悪」なのだ。
長い階段を下りながら、そういうことを考えた。
ある神社の階段を下りながら、お天道様のことを考えた。

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