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「春」と「夏」

  • 執筆者の写真: tsuruta
    tsuruta
  • 2020年5月30日
  • 読了時間: 3分

高校野球が「夏」も中止、と高野連は決めた。福岡も地方大会が中止であるとのこと。逆に大阪は、知事のリーダーシップで地方大会は行うという。

前にも書いたが高校野球中止など、これらの意思決定プロセスに疑問を感じる人は多い。「やる」「やらない」の選択をする場合、リスク対比のリターン対比で考えないと答えが出せない。高校野球もそうだろう。中止を選べば、「安全」というリターンが手に入る。しかし、開催しない時に失う膨大な若者の夢や希望。これらから得られる「リターン」は計り知れない。主催者側にはリターンよりも、万が一開催して「安全」を失った場合の責任問題という「リスク」が大きいのだろう。万全を期しても感染のリスクは伴うからだ。しかし、選手にしてみればどうであろう。「感染」というリスクを負ってでも「センバツ出場」を追求したかったに違いない。その気持ちを察する『気概』が、主催者側にあっただろうか。選手の気持ちや熱量を分かっていないのではないか。むしろ、自身に降りかかるリスクを逃れることで、頭がいっぱいなのではないか。危機は危機であるが、前に進める勇気が必要な時期なのではないか。「春」とは状況が違うのである。


「悲観は気分であり、楽観は意思」である。楽観には経験や裏打ちされた科学がある。無謀なことを言っているのではない。明らかに「春」の状況とは違う。感染症を避ける経験を我々は積んできた。三密を避ける、クラスターをフォローアップできる準備をしておく、病院対応の準備。これらを犠牲を払いながらも、着実にやってきた。

なぜ、賢明なるその意思によって、リスクを最小限に抑える合理的手段を思考しようとしないのか。完全ではないが、前に進めなければ日本の前進はない。


最初から、「リスク・ゼロ」などはない。主催者は、誰かの犠牲の上に胡坐をかいているだけなのだ。現場を知らない高野連の関係する経営者や学者は、リスクを取ろうとしない。

『ブラックスワン』で有名なナシーム・ニコラス・タレブの近著は『身銭を切れ』(SKIN IN THE GAME)で、「自分の意見に従ってリスクを冒さない人間は、何の価値もない」という。合理的なリスクを取ることは、人間と機械との違いを決める問題であり、人間としての「格」の問題でもある、とタレブは言う。


今、未曽有の危機に際して、僕らは大きな不確実性に直面している。ここでの「リスクの取り方」は、我々の生き方そのものだと言える。リスクに際して、英知をどう発揮するか。これは我々に対する戒めでもあるように聞こえた。


勇気ある選択をする必要がある。止めるにしても、科学や経験に基づいて数字で「やらない理由」を語らねばなるまい。そうでなければ、やるときの理由が立たない。雰囲気で「悲観」を言ってもらっては困るのである。


繰り返し言う。完全なる「リスク・ゼロ」など、最初からない。


経済活動、感染症、交通事故。無意識のうちにリスクの中で生活をしていることを忘れてはいけない。賢明な判断を我々はしている、と中止した人は言う。本当にそうだろうか?思考停止になってはいけない。リスクが人知によってバランスすることが大切だ。バランスが取れた社会生活を営まねばならない。


無意識な思考停止を疑ってほしい。リスクを合理的に許容する落ち着いた社会を選択していくべきだろう。



高校球児を知るものとして・・・。


 
 
 

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