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あと一歩

  • 執筆者の写真: tsuruta
    tsuruta
  • 2020年4月5日
  • 読了時間: 3分

更新日:2020年4月17日

よくある話である。


最後の決断ができない。躊躇する。失敗したらどうしよう、と考える。


当たり前である。


誰にでもある。未来は誰にも見えないからだ。決断は怖いものである。しかし、多くの場合、やむにやまれず、にであろう。ここが大切である。何が自分を突き動かしているのか?そこに「私心」はないのか?そして、考えて欲しい。何のために、誰のために、そして、何がしたいのか。ここを何回も問い直す必要がある。


私事で恐縮だが、子供たちに小さい時から問うてきた。過剰な難題を突き付けていたのかも知れない。子供達には、何を言っているのか、という顔をいつもされた。5、6歳くらいから、月に一度は聞いていた。だが、私にとっては、それは重要なことであった。親からの財産として、そして遺言として、子供たちに人生を無駄にしてほしくはなかったからだ。限られた時間を大切に生きて欲しかった。そのために「何になりたいの?」、そして「どうして?」を何百回と聞いただろう。振り返ると、その時分の私が、サラリーマンとして一生を終えるかどうかを悩んでいたからかもしれない。勝手を言ったのかもしれない。反省をする。


だが、正解などない。答えは、どこにも最初からありはしない。


あるのは、一瞬一瞬を懸命に生きて、もがいて、もがいて、そして、生きていくだけなのだ。それしかない。その時その時をいかに集中し、自身のエネルギー燃えつくすかだけだ。私の場合は、組織の中で、懸命に市場のニーズやお客様の期待に応えてきた。そういう思い込んでいる?自分の勝手な満足感だけである。


もういい年齢である。それでいいだろう、私の場合は。


ただ、若者が岐路に立ったとき、迷う時、自分の心に聞いて欲しい。「あなたは、本当に何がしたいの?」。そして、「将来、どうありたいの?」。それから最後に「その決定の背後に私心はなかった?」と。


大いにもがいて欲しい。そのプロセスこそが、大切だと思う。


それは、人生の岐路に立つとき、そして起業するときも同じなのだ。


多くの場合、自身の情熱が何にも勝るときに、進まざるを得ない。その情熱こそが、重要で唯一の人生の牽引車なのだ。


情熱無き者に成功はない。そして、情熱に裏打ちされた冷静な「戦略」が成功には不可欠なことは、言うまでもない。


それでも、情熱がなければ戦略もクソもない。


突然、何の脈絡もなくベトナム料理店をやりたいとか、相場の2倍以上の報酬を転職の際にふっかけ、周囲からの実力以上の期待に押しつぶされそうになっている人もいる。また、上司に自分の要望を突き付けられずに、迷っている人もいるだろう。また、この時期に独立し、両親と対立し資金的な心配をしている人もいるでしょう。


いいではないですか、それもまた人生。自分が選んできた人生の結果でしょう。


決めたことを粛々と進めればよい。厳しい現実に真剣に立ち向ってほしい。しかし、そういうチャレンジが出来る人は幸せだろう。経済的な理由などで、全くできない人もたくさんいるのだ。また、ある意味、自分で選択できる環境は「稀」かもしれない。そういう人は、成功者に向けて、一歩進んだ、と言っても良い。


多くの人は危機に際して、たじろぎ、そして、一番いけないのが、何もしない、何も言わない、何もリスクを負わない。どこかの高みから、ただ他人を見ているだけ。そして、嘲笑と嫉妬をないまぜにしたまま、生きている。怖いのだ。内心ぶるぶる震えているのだ。そして、残念なことに、それすらさらけ出せないでいる。


そういう人が如何に多いことか。


現実に真剣に直面せよ。そして、取るべきリスクは取れ。身銭を切れ。そして、前に進むのだ。


そうしなければ、何も失わない代わりに、何も得ることもできない。ただ、老いゆくだけである。終末に向かうだけであると、断言する。


そう思った、週末である。


                        



新しいプロジェクトを研究しながら。




 
 
 

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